水底 ~何か~

 風変わりな少年だ。
 それが高鳥の彼に対する第1印象だった。
 教師として出来るだけ生徒を公平に見るようにしている。しかし、この少年に対する感じは変わらなかった。
 いったい、どこがそんな奇異を与えるのか。ベテラン教師としての洞察力を働かせても分からなかった。
 面談室に呼び出しを受けた少年はじっと座ったまま俯いていた。
こうして目の前に座っているだけでは、ごく普通の中学生にしか見えない。
 この年頃に共通した、未成熟な情緒不安定もない。成績も悪くない。少なくとも、この月のテストではクラス上位に位置していた。素行上の問題点も特にない。
 変わった所を強いて上げれば、それは彼が転校生であるという事と、幼い時に両親を亡くしている事であろうか。
それらが果たして、あの奇行の原因となるか、と、問われても考えてしまう。 奇行、といって良ければの話だが、それは少年が極度に水を嫌う事なのだ。
水、正確に言えばプールである。夏期に入り水泳の授業が始まると、最初は病気を口実に学校を休んだ。
 だが、この中学では、医師の診断書を出さねば承諾しない。従って少年も休めなくなった。彼が、次にとった手はプールの設備を破壊する事だった。それも徹底的にであったから堪らない。
 更衣室の鍵を隠したり、ありとあらゆる手を使い奮闘した。そして、今日のこの騒ぎである。少年は、ペンキをプールにぶちまけたのだ。再び使用するには、大変な掃除をしなくてはいけない。
「とにかく、いい加減にしてもらいたいですよ」
 不意に頭上から罵声がし、物思いに沈んでいた高鳥は我に返った。声の主は同僚の体育教師であった。
名前を上島というが、生徒達はこっそりはげヤカンというあだ名で呼んでいるらしい。
「この前はプールの鍵、その前は更衣室、またその前も……。一体どうしてこんな事をするんですかね?」
呆れ果てた、という口調で大柄な体育教師は言った。
 少年は下を向き、体育教師の言葉を額で受けるようにして黙っている。頑なな態度というより、懸命に耐えている、そんな感じであった。
「どうしたもんですかね?高鳥先生」
 皮肉かな、と、高鳥は上島を見た。少年の担任として、何らかの処置を取らねばならないのは当然の事なのだ。
 上島は別に皮肉っている様子ではなかった。実際の話、お手上げなのだろう。
相変わらず少年は俯いたまま、貝の様に口を閉ざしている。
 開いた窓から熱気と歓声が入ってくる。グランドでは生徒達が思い思いの遊びで昼休みを過ごしていた。
「私に任せてもらえますか?」
 高鳥が上島に言った。
 言われた彼は少しの間、少年の方を見て高鳥に頷いた。そして、肩を竦めて部屋を出て行く。
部屋には少年と高鳥の2人だけになった。
腕組みをほどき、高鳥が少年の方に向き直る。とにかく、何とかこの機会に、少年の奇行を止めなければならなかった。
特に明日は不味い。この中学校は、地区の体育研究校に指定されており、明日の全校水泳大会では他校の先生や理事長等に研究成果を見せる事になっているのだ。
今日の所は業者を呼んで何とか掃除をし、使用可能へ向かっているが、明日、また同じことをされたら大変不味いのだ。
 高鳥は、軽く溜息をつくと少年に言った。
「どうして、こんな事を続けるのだね?」
 高鳥の問いに少年は無言で応える。
 もう一度、今度は大きく高鳥は溜息をつく。彼はこの件に対していつもこうだった。
 水に対する恐怖症。一体何が原因なのだろう?
 高鳥は、机の上に置いてあった少年の記録を手に取った。それは、少年が前にいた中学校から送られてきたものだった。前校の担任教師は、少年に余り良い感情をもっていなかったらしい。書類には神経質な字で、少年の奇行原因を幼年時の事故に結び付けていた。
 それは、彼の両親が水死した事であった。親子3人の乗った、小型モーターボードが転覆したのだ。幼かった少年は、奇跡的に助かったのだが、彼の両親は救助の甲斐もなく、亡くなっている。
原因がその事にあるのだとすれば、今ここで無理に少年を説き伏せるのは、止めた方が良さそうである。
「理由を話してくれないか。君が何故、プールに入りたがらないかを。このままではお互いに困るだろう?」
 今度も少年は黙っているだろうと思ったが、以外にも彼は口を開いた。
「水の中には、奴等がいるから……」
「奴等って?」
 高鳥が尋ねる。日差しがかすかに陰ってきた。
 高鳥は初めて、この少年の風変わりさの根拠を見たように思った。妙に、年齢とは不似合いな影が少年の瞳に宿っていたのだ。
それ以上、何を聞いても彼は答えなかった。空想癖でもあるのか。そう思い、高鳥は質問を止めた。
「仕方がないね。判った、明日の大会は見学しなさい」
 ついには、高鳥が折れて少年の見学許可を出した。半分厄介払いのような気がして後ろめたかったが、自分の立場として仕方ないと思う事にした。とにかく、これ以上事を起さないで欲しいのだ。
 いつの間にか、窓から入って来た歓声は消えていた。
高鳥がそれを意識すると同時に、午後の授業開始を告げるチャイムが鳴った。
「行きなさい」
 高鳥が少年に言った。これから、次の授業の準備をしないとならない。
 少年は一礼し、高鳥に背を向けて出て行こうとした。と、彼の手首に痣のようなものが目に入り、思わず高鳥は呼び止めた。
「君、何だねそれは?」
 指をさして高鳥が聞く。少年の半袖シャツからのぞく、細い手首にそれは薄黒く付いていた。
一瞬、少年は自分の手首に目をやると、高鳥から逃げるように面談室を出て行った。
 しばらくの間、高鳥は、少年の出て行ったドアをぼんやり見ていた。何かが、心の奥底に引っ掛かっている。
漠然とした不安である。少年の手首の痣、それはある形を連想させたのだ。
(水の中には、奴等が……)
 その言葉が耳に残っている。高鳥は頭を振り、急いで教室に向かった。

 水飛沫が上がり、陽光に煌く。楽しげな歓声が響き、プールサイドは華やかであった。
 全校水泳大会は、万事順調に進んでいる。
 真夏の強烈な日差しが、生徒達の日焼けした肌を照らす。
 高鳥は、目を細めてそんな様子を見ていた。
 プールサイドには、日差しを避ける屋根付きの観客席があり、そこが、今日の大会に招かれた貴賓の席になっている。 プール設備は実に立派なものであり、この中学校の自慢の一つであった。プール自体は50メートルの公式プールで、
シャワーや更衣室等の付属設備にも、たっぷり金がかかっているのだ。
 観客席の下では、肥満体の校長が愛嬌を客に振りまいている。
 甲高い笛の音がして、いっせいに水飛沫が上がった。競泳が始まったのだ。
 生徒達は、男子も女子も皆力強く水を掻いて行く。思わず高鳥の顔もほころぶ。
一年生の新入期から、教師達がみっちり教えたのだ。泳げない者は、無論の事一人もいない。
 着順にタイムが正面の電子掲示板に表示される。全国平均より上である。
その度、どうだと言わんばかりの顔で、校長は客の方に話しかけるのだった。
 そんな中を上島が高取の方にやって来た。体育主任として、誇らかなのだろう。
常からは思いもよらないぐらい、にこやかに笑っている。
「上々の成果ですな」
 上島が言った。
 確かに、上々の出来であった。研究校としての面目も充分に果たせた。居並ぶ来賓達も皆満足げだった。
「ところで、例の生徒はどうしました?」
 上島が不意に尋ねた。
「え?」
 高鳥は一瞬、何の事か判らなかった。
「先生のクラスの生徒ですよ。名前は何と言ったかな?えーと」
「ああ、判りました」
 やっと高鳥は気付いて答えた。今の今まで、少年の事はすっかり忘れていたのだ。
不思議な事である。あれほど、印象付けられていたのに、まったく念頭から消えてしまっていたのだから。
「彼には、見学するように言ってありますから」
「じゃあ、大丈夫ですな」
 上島は、まだ少年が大会を妨害するのではないか、そう思っているらしい。
が、無理に少年をプールに入れなければ問題はないのだ。
 次の競泳準備の為、上島はそそくさと離れて行った。
 高鳥は少年の姿を求めて辺りを見回した。確かにどこかで、見学しているはずだ。
捜すと、少年の姿は容易に見つかった。この大会に不参加なのは、彼だけなのだ。
独りだけ、ぽつんと取り残され、プールサイドの金網にもたれかかっていた。
良く見ると、少年は金網にもたれているのではなく、後ろに回した両手でしっかりと金網を握り、プールから遠ざかるようにしているのだった。
 理由もない不安が、再び高鳥の胸に湧き出してくる。
 少年の周りには、大勢の生徒達がいるのだが、誰も彼に注意を払っていない。
 独り少年は、この賑わしい風景の中で浮き上がっていた。その顔色は青ざめ、何かに怯えているのが高鳥には感じられた。
 どうしても気になってしまい、高鳥は少年の所へ歩き出した。近くによって見ると、少年はじっとプールの水面を見つめていた。
「君、大丈夫かね?顔色が悪いようだが……」
 高鳥が静かに聞いた。シャツに薄く汗が滲む。真夏の熱気が今頃になり応え出してきたようだ。水の近くであるというのに……。
額に流れる汗を拭い、深呼吸をして気分を落ち着ける。
「教室に戻った方が良くはないか?」
 少年は、心配して尋ねる高鳥には答えず、水面から目を離さない。
 近くで鳴っている蝉の声がひときわ大きくなる。
 高鳥の不安はますます募っていく。今、ここでこの少年を見て、不安の原因が彼にあるのだと判った。
「高鳥先生!」
 本部テントから同僚教師が高鳥を呼んでいる。行かなければならないのだが、何故か高鳥には、この生徒をここにいさせてはならない、そんな予感がして動けなかった。
(大変な事になる前に、彼を……)
 それは強迫観念となり、高鳥に訴えかける。汗が、いつの間にか冷たいものに変わっていた。
「高鳥先生!聞こえないんですか?!」
 大きく呼ばれ、高鳥の呪縛がとけた。
 重い息を吐いて、高鳥はテントの方へ戻りかけた。しかし、強迫観念となった不安は消えなかった。振り返ると、少年は依然として水面を睨んだまま動かない。
 少年を数人の男子生徒が囲んだ。何やら話しかけた後、少年を無理矢理金網から離す。
次の瞬間、少年の身体がぐらりと揺れ、頭からプールに飛び込んだ。いや、飛び込んだのではない。少年の背を男子生徒が押したのだ。その連中が大笑いしている。
 独りだけ見学をしていた彼は、クラスメートから密かに反感を買っていたのだ。
プールに突き落とされた少年は、一瞬水面に顔を出したが直ぐに沈んでしまった。
その様子に、他の生徒や教師達が気付き、大騒ぎとなる。
 血相を変え、高鳥は走り出す。シャツを脱ぎ捨てプールに飛び込む。
何故か水は暗く、プールの中というより深い海中を思わせた。
 必死に少年を捜すが見つからない。水が重くまとわりつく。
しかし、幾ら大きいとはいえ、たかがプールの中である。見つからないはずがない。
2度、3度、と、体を捻ると視界の隅を白いものがちらりと掠めた。少年の着ているワイシャツであろう、そう思い,高鳥はその方向に泳ぎ出した。
 少年は、プールの最深部に沈んでいく。高鳥は手を伸ばし、少年の襟を辛うじて捕まえた。渾身の力を込め、引き上げようとする。
 が、少年の体は何かに引き戻され、びくりとも動かない。
 思わずぞっとして、高鳥は下を見た。少年の足元に黒い影が一瞬見えた。
 その途端、影の力が抜かれ、少年の束縛が解けた。高鳥の息が詰まり、奇泡が口から吐き出される。
 懸命に少年を水面に抱え上げた時には、視界が暗く閉ざされる寸前であった。
 少年の首を上に向け、高鳥はプールサイドに向けて泳ぎ出した。

 上島が必死に人工呼吸を施している。が、少年の息が既にない事は一目で判る。
 ぐったりとして、仰向けに寝かされている。その側で、少年を突き落とした男子生徒達が呆然としている。
教師、生徒、来賓達もなすすべもなく……。
 高鳥は荒い息を吐き、少年の足首をじっと見ている。
(水の中には、奴等が……)
 少年の言葉がよみがえる。
 高鳥は、堪えようのない悪寒に捉えられていた。少年の足首には手首にあるものと同じ痣が付いていたのだ。

 それは、はっきりと五本の指の形をしていた。


(了)